気候変動の科学

今から約180年前、フランスの数学者フーリエは、太陽から地球に届くエネルギーから地球の平均気温を検討し、実際の気温よりも低いことを発見し、地球から放出される赤外線が宇宙に逃げて行くときにそれを妨害する何かのメカニズムがあるのではないかと考えました。これが「温室効果」を理論的に予測した最初のものです。

1865年、アイルランドの物理学者のチンダルが、フーリエが提唱した温室効果を実験的に確かめ、二酸化炭素(CO2)、メタン(CH4)、水蒸気(H2O)には温室効果があることを発見しました。

1896年、スウェーデンの物理化学者アレニウスは、石炭などの消費によってCO2排出が増え、それによって気温上昇が引き起こされるとし、もしCO2量が2倍になった場合、5~6℃の気温上昇が起こると予測しました。

実際に大気中のCO2濃度の観測が始まったのは1958年です。アメリカの化学者キーリングはハワイ島の4150mのマウナロア山頂でCO2濃度の測定を行い、この観測結果から大気中のCO2濃度が季節的な周期変動すること、また年々増加していることを初めて明らかにしました。このグラフはキーリング曲線を言われます(下図)。


  

条約交渉の開始まで

気候変動問題に対処するため国際的な取り組みが開始されたのは、1980年代の後半です。1985年にオーストリアのフィラハで「気候変動に関する科学的知見整理のための国際会議」が開催され、この会議では「21世紀半ばには人類が経験したことのない規模で気温が上昇する」との見解が発表されています。1986年には世界気象機関(WMO)、国連環境計画(UNEP)と国際科学者評議会(ICSU)が、「温室効果ガスに関する助言グループ(AGGG)」を発足させています。1998年6月にはカナダのトロントに40数カ国の科学者、政策決定者、NGOなどが集まって「変化する地球大気に関する国際会議」が開催されました、このトロント会議は、G7サミットの後に開催されたこともあり、多くのマスコミ関係者も参加し、メデイアにも気候変動に関する認識が広まりました。このトロント会議では、地球全体の目標として、「CO2排出量を2005年までに1988年レベルから20%削減し、長期の目標としては世界全体で50%削減が必要」という、「トロント目標」と呼ばれる勧告が出されています。同じころ、アメリカの上院の公聴会で航空宇宙局(NASA)のジェームス・ハンセン博士が、「1980年代の暖かい気候はたまたまではなく、気候変動と関係していることは99%の確率で正しい」と証言し、大きな注目を集めました。

1988年秋には、気候変動問題についてのデータや知見を集め、これを評価するIPCCが設立されました。

1989年11月にはオランダのノルトヴェイクで、約70ヵ国の大臣が集まる閣僚級レベルの会議が開催され、「削減目標を設定すべき」と主張するオランダやスウェーデンと、これに反対するアメリカ、一律削減に反対する日本などが対立し、最終的に「温室効果ガスを安定化させる必要性を認識する」との宣言が採択されています。

同年12月に開催された国連総会は、1972年にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」の20年目にあたる92年に、「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」をリオ・デ・ジャネイロで開催することを決議しました。決議は以下のように述べています。

「環境はますます悪化し、地球の生命維持システムが極度に破壊されつつある。このままいけば、地球の生態学的なバランスが崩れ、その生命をささえる特質が失われて生態学的なカタストロフィー(破局)が到来するだろう。私たちは、この事態を深く憂慮し、地球のこのバランスを守るには、断固たる、そして緊急の全地球的な行動が不可欠である。」

 地球サミットに向けて、気候変動(気候変動)問題、生物多様性の保全問題そして森林問題についての3つの条約を策定すべく交渉が開始されました。しかし、先進工業国と途上国の対立から森林問題についての条約を作成することは断念され、気候変動問題と生物多様性の保全についての条約交渉が進められることになりました。

1990年8月、IPCCは第1次評価報告書を発表し、温室効果ガス濃度の上昇が人間活動によること、対策をとらないと今後100年で平均気温が約1~3度上昇する可能性を指摘しました。(表1)
表1 条約・議定書交渉の経過
1958マウナロアでCO2観測開始
1985フィラハで「気候変動に関する科学的知見整理のための国際会議」
1986「温室効果ガスに関する助言グループ(AGGG)」発足
1988トロントで「変化する地球大気に関する国際会議」/IPCC発足
1989ノルトヴェイクで閣僚級会議
1990IPCC「第1次評価報告書」/第2回世界気候会議
1992気候変動枠組条約に合意/地球サミット
1994気候変動枠組条約発効
1995ベルリンでCOP1/ベルリンマンデート採択
1997COP3/京都議定書採択

  

気候変動枠組条約

1991年2月から開始された、政府間交渉会議(INC)での「気候変動枠組条約」の交渉は難航しました。1990年に開催された「第2回気候会議」では、オゾン層の保護に関する交渉を参考に、まず気候変動が深刻な環境問題であることを確認し、その後の協力関係を定める「枠組条約」と、その後の科学的知見や対策技術の進展に合わせて、条約のもとに具体的な義務規定を定める「議定書」を交渉するという2段階の交渉方式が合意されていました。条約も議定書も法的には同格ですが、内容的には枠組条約が原則や方向性を規定する親条約で、議定書は具体的な目標や行動、各国の義務などを定める子条約のような関係になります。EC(現在のEU)は、気候変動問題の緊急性から、「枠組条約」と「議定書」を同時並行で交渉すべきと主張し、アメリカや日本は時間的な制約もあるので、まず「枠組条約」の交渉を先行させるべきだと主張しました。結局、交渉開始からリオでの地球サミットまで1年3か月しかないことから、「枠組条約」の交渉に専念することになりました。

また、ECは条約に「先進国は2000年までに1990年比10%削減」との数値目標や削減スケジュールを定めることを主張し、これに対しアメリカは「枠組条約」の名前のとおり、モニタリングなどの協力などの記載に止め、排出削減義務を盛り込むことに強硬に反対しました。

途上国グループは、気候変動の影響を最も強く受ける島しょ国、気候変動対策によって石油が売れなくなることを懸念する産油国、工業化を進めている中国、インド、ブラジルなどの新興国という利害が対立するグループが存在していました。当時は人口で20%を占めるにすぎない先進国が70%以上のCO2を排出していたこともあり、また途上国はまとまらないと交渉力も弱いことから、「先進国主要責任論」でまとまっていました。

INCでの交渉は、5.5回の会合を経て、1992年5月に「気候変動枠組条約」を採択しました。その内容は以下のとおりです。

究極の目的(2条)
条約は、究極の目的を「危険な人為的干渉を及ぼすことにならない水準において大気中の温室効果ガスの濃度を安定化させること」とし、この「安定化」は、生態系が気候変動に適応し、食糧の生産が脅かされず、経済開発が持続可能な態様で進行することができるような期間内に達成されるべきだとしています。わかりにくい表現ですが、「温室効果ガス濃度を、人類の生存に危険を及ぼさないレベルに止める」ことを目的とするということです。
しかし、「危険なレベル」、「安定化」がどの水準の温室効果ガス濃度を指すのか、何時までに「安定化」を達成すべきかについては記述されていません。これには、1990年8月に発表されたIPCCは第1次評価報告書が、危険でない平均気温の上昇幅や大気中のCO2濃度レベル、必要な排出削減量について言及できていないことが反映しています。

5つの原則(3条)
条約3条は、条約の目的と達成し、実施するにあたって指針とすべき、以下の5つの原則を定めています。
① 衡平の原則及び共通だが差異ある責任
② 発展途上国などの個別のニーズ、特別な事情への考慮
③ 予防原則
④ 持続可能な発展
⑤ 協力的で開放的な国際経済体制に向けての協力
こうした原則を条約に定めることを主張したのは途上国で、アメリカなどは原則の法的性格が明かでないとして反対しました。最終的に途上国の主張がとおり、原則が条約のなかに規定されることになりましたが、これらの原則はあくまで「条約の目的達成と実施のための措置の指針」であることがアメリカの要求で、前文に明記されることになりました。
これらの原則のなかでも、重要なのは①の「共通だが差異ある責任」原則です。
「共通だが差異ある責任」とは、地球温暖化への責任は全世界共通のものではあるが、先進国と途上国との間ではその責任には差があり、先進国側に、より大きな責任がある」というものです。この原則により、OECD*1加盟国と経済移行国*2 が附属書Ⅰ国とされ、それ以外の途上国は非附属書Ⅰ国とされ、さらにOECD加盟国は附属書Ⅱ国とされ、負う義務に差が設けられています。例えば、附属書Ⅰ国は温室効果ガスの排出抑制をすることにより気候変動を緩和する政策と措置ととる義務があり、附属書Ⅱ国は途上国に対する資金供与や技術移転の義務を負うとされています。

削減目標とスケジュール(4条2項)
条約4条2項には、附属書Ⅰ国は、「1990年代の終わりまでにその排出量を従前のレベルに戻す」との記述がありますが、この規定が、附属書Ⅰ国に対し、法的拘束力ある削減目標とスケジュールを規定した条項であるかは、解釈がわかれています。ECなどは、「附属書Ⅰ国に対し、1990年代の終わりまでにその排出量を1990年レベルの排出量に戻す義務」を規定したとしましたが、一般的には法的拘束力ある削減義務を課したものと解釈するのには無理があると理解されています。

また、この条約には2000年以降の排出量についてはまったく書かれていません。

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*1 経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development)。
*2 市場経済への移行の過程にある国。東欧などの旧社会主義国。

  

COP3までの京都議定書交渉

気候変動枠組条約は、発効条件となっていた50ヵ国の批准を経て、1994年3月に発効し、その1年後の1995年3月から4月にかけて、ドイツのベルリンで第1回締約国会議(COP1)が開催されました。

このCOP1が開催された頃には、気候変動枠組条約では気候変動問題の解決には不十分で、先進国に追加的な削減義務を課す議定書が必要だとの認識が高まっていました。

EUは、先進国にさらなる削減目標が必要で、COP1で議定書交渉開始に向けた決議をすべきと主張しました。アメリカや日本などのEU以外の先進国は、議定書交渉を開始すること自体に消極的でした。多くの途上国は先進国のみが削減義務を負うべきで、途上国には削減義務などを負わせるべきではないと主張しましたが、先進国の削減義務に反発する産油国が対立していました。膠着状態に陥った会議を動かしたのは、インドを中心とする「グリーングループ」が結成され、附属書Ⅰ国の排出抑制義務や非附属書Ⅰ国への資金・技術移転などとともに、非附属書Ⅰ国には義務を課さないという内容の「グリーンペーパー」をまとめ、先進国に提示しました。これを契機に会議が大きく動き、で、現在の条約では気候変動問題の解決には不十分であることを確認し、COP3までに「新たな議定書あるいはこれに代わる法的文書」に合意するとするベルリン・マンデートが決議されました。このCOP1で議長を勤めたのは、現在のドイツのメルケル首相で、最後はアメリカの代表を膝詰めで説得したと言われています。

ベルリン・マンデートが、COP3までに CO2排出量の抑制・削減目標と達成期限を決める議定書またはその他の法的文書を採択するとしたことにより、COP3は気候変動問題の解決にとって決定的に重要な会議になりました。そして、このCOP3の議長国として、日本政府が名乗りをあげたのです。日本政府がCOP3の議長国として名乗りをあげたことには、私たち日本のNGOは驚くとともに、困惑しました。驚いた理由は、日本政府が温室効果ガスの排出量の削減の合意という極めて難しい国際交渉の議長国として、リーダーシップを発揮できるとはとうてい思えなかったからです。COP1の議長国であったドイツ政府は、COP1の議長国を引き受けるにあたって、国内での CO2排出量の大幅な削減目標と達成期限を設定し、自らが率先して削減する態度を明確にして、議定書交渉をリードしてきました。しかし、日本政府にはまったくこうした準備はなく、削減どころか、1990年に閣議決定した「地球温暖化防止行動計画」が定める、 CO2排出量を2000年までに1990年レベルに安定化することすら達成できる見通しがなかったからです。

ベルリン・マンデートにもとづき、特別作業グループが設けられ、「新たな議定書あるいはこれに代わる法的文書」の交渉が開始されました。この特別作業グループは、「ベルリン・マンデート・アドホック会合(AGBM)」です。このAGBMの最大の論点が、2000年以降の先進国の目標数値でした。また、目標数値もさることながら、対象ガスをどうするか、目標年、森林などの吸収源の扱いなども交渉のテーマでした。

差異化
さらに大きな問題は、先進国の各国の国別目標をどのように決めるか(差異化)でした。ノルウェーなどはGDP当たりの排出量や一人当たり排出量を基準にすべきだと主張し、オーストラリアはGDP成長率、人口の推移、化石燃料の輸出入量などをもとに定めるべきだと主張し、スイスやフランスは一人当たり排出量を基準とする案を提示していました。

削減数値
削減数値については、EUは2010年までに一律15%削減を主張しましたが、EU内部では90年比で25%削減するドイツやデンマークや、40%の増加を認められたポルトガルまで大きな差異があり、これが一律ではなく国別に差異化した目標数値を主張する日本やノルウェーに批判されることになります。しかし、EU以外の国は具体的な目標数値を提案できないままでした。日本が国別の差異化を主張する根拠は、オイルショック後に日本は省エネを進め、他の先進国に比べて一人当たり排出量が少なく、こうした既存の努力が評価されるべきだというものでした。日本は、当時、1990年比で排出量を削減するのは困難とする通産省と、6%程度の削減は可能とする環境庁が対立しており、具体的な目標数値を提案できる状況ではありませんでした。COP3直前の1997年10月のAGBM8で、「基準削減率は5%とし、但しGDP当たり排出量あるいは一人当たり排出量が附属書Ⅰ先進国の平均より低い場合、また人口増加率が平均を上回る場合は、その分だけ削減率を下げられる」とする案を主張しました。これはオイルショック後に省エネを進め、他の先進国に比べて一人当たり排出量が少ない日本は削減率が低くなる、日本に都合のよい案でした。

  

COP3での交渉の論点と合意内容

COP3は1997年12月1日から国立京都国際会館で始まりましたが、合意できるかどうかの見通しはまったくたっていませんでした。COP3の初日に日本のNGOのネットワークである気候フォーラムのブースを訪れた当時の小渕外務大臣に、COP3の見通しを聞いたところ、「五里霧中です」と答えられたことを覚えています。


COP3での交渉の論点と合意内容は以下のとおりです。

対象ガス
どのような温暖化ガスを対象とするかについては、計測が確実なCO2、メタン、一酸化二窒素(N2O)の3つのガスを主張するEUや日本と、フロン類の3ガス*4も含めるべきとするアメリカなどが対立しました。最終的にアメリカなどが主張した6つの温暖化ガスを対象とし、それぞれのガスについて目標を定めるのではなく、6つのガスを炭素換算してまとめて削減対象とすることになりました(バスケット方式)。
*4 ハイドロフルオロカーボン、パーフルオロカーボン、六フッ化硫黄

森林などの吸収源の取り扱い
目標の達成に森林などの吸収源の増減を含めるかどうかも大きな交渉テーマでした。島しょ国連合や日本は森林などの吸収量は不確実性が大きいとして、吸収源を含めるべきではと主張しましたが、オーストラリアやニュージーランドなど多くの国は、排出量から吸収量を引いた純排出量を主張しました。各国とも自国にもっとも有利になる方法を主張しましたが、最終的に不確実性が低いと考えられた「1990年以降の植林、再植林、森林減少」に限定して算入することになりました。この吸収源の取り扱いについては、基準年の排出量については発生源からの排出量のみとされ、吸収源による吸収量は含まれておらず、目標年の排出量については吸収源による吸収量を含むという方式(グロスネット・アプローチ)がとられています。

基準年と目標年
基準年については、1990年当時は経済が崩壊状態で排出量が少ないという東欧諸国を除いて1990年とすることで概ね一致していましたが、目標年については2005年、2010年という特定の年を基準年にすべきとするEUに対し、日本やアメリカは5年平均を主張しました。最終的に2008年から2012年の5年間平均を目標年とすることになりました。5年平均とする理由は、単年ではその年の気候や経済状態で排出量が変わってしまうからだと説明されています。

削減目標
もっとも揉めたのは各国ごとの削減目標です。そもそもCOP3で各国が提案していた目標数値は、対象ガスや吸収源の扱いが異なっていたため、対象ガスや吸収源の扱いが決まるまで数値目標の交渉に入れませんでした。数値目標の交渉に入っても、EUとアメリカ、日本などの対立が続きました。途中でCOP3の全体会合のエストラーダ議長が、EU8%、アメリカ5%、日本4.5%の削減数値案を示す場面もありました。しかし、EUがアメリカ5%に異議をとなえ、最終的にEU8%、アメリカ7%、日本6%、先進国全体で5.2%削減で決着しました。附属書Ⅰ国の削減目標は下図のとおりです。


  

気候変動枠組条約と京都議定書の意義

気候変動枠組条約には現在、国連加盟国のほとんどすべての国が参加しています。京都議定書にも、アメリカとカナダを除くほとんどの国が参加しています。

気候変動枠組条約と京都議定書のような多国間条約が必要とされるのは、大気という誰のものでもない、誰でも好きなように利用できる公共財に関する問題だからです。そして、もっとも温暖化への寄与の大きなCO2は、すべての国が排出しており、1ヵ国だけが排出量を削減しても気候変動問題を解決することはできません。気候変動枠組条約のような多国間条約を締結することにより、他の国にも必要な行動をとってもらうことで、問題解決の可能性が高まります。また、多くの国が条約に参加することで、その問題の重要性についての共通認識が醸成され、交渉を通じて、目標の水準についての議論が深まり、行動についての協調が可能になります。

気候変動枠組条約と京都議定書は、明らかにそれまでの温室効果ガスの排出放任から排出規制への大きな転換となりました。それまでの、エネルギー消費の増大を伴う工業化や経済成長は人類の発展であり、工業の発展や経済成長が人類を幸せにするとの考えからの転換です。また、世界的な省エネ、自然エネルギー普及などを促しました。

確かに、京都議定書の削減目標では、危険な気候変動を防ぐことはできません。しかし、京都議定書が先進国だけとはいえ、エネルギー消費の削減に踏み込んだことは、大きな一歩と評価してもよいと思います。

  

京都議定書の運用ルールの 交渉

 COP3で京都議定書が採択されましたが、COP3は先進国の削減数値目標の交渉に終始し、採択さ れた京都議定書の運用ルールについては、ほとんど白紙の状態でした。とりわけ、吸収量を自国の目標達成に利用できるとされた森林などの吸収源の取り扱い、京都メカニズムと言われる共同実施・排出量取引・クリーン開発メカニズム(CDM)の解釈や運用ルールが課題として残されていました。とりわけ、CDMは「京都の驚き」と言われるように、先進国の排出削減義務の不履行への制裁金を原資とするクリーン開発基金の提案が、アメリカなどの提案でまったく違った制度として、議定書に規定されたので、大多数の締約国にとってまさに「驚き」で、CDMとは何かについても、共通の理解はなかったと言ってよいと思います。また、遵守手続についても、議定書18条が、京都議定書の第1回会合において遵守手続を決定するとされていましたが、不遵守の場合の措置などは白紙の状態でした。
 COP3の翌年にアルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたCOP4は、2000年のオランダのハーグでのCOP6までに京都議定書の運用ルールについて合意するとするブエノスアイレス行動計画を採択しました。

表1 条約・議定書交渉の経過   
国際的な取り組み
2000 COP6(ハーグ)決裂。アメリカ:ブッシュ共和党大統領当選。
2001 アメリカ:京都議定書交渉から離脱。
COP6.5(ボン): 京都議定書の運用ルールについて政治的合意。
COP7(マラケシュ): 京都議定書の運用ルールの合意(マラケシュ合意)。
2005 京都議定書発効 
COP11/CMP1(モントリオール);AWGkP, 長期的対話の開始。
2007 IPCC第4次評価報告書
COP13/CMP3(バリ);バリアクションプラン、AWGLCA開始。
2008 G8(洞爺湖サミット)で2050年世界の総排出量半減目標に合意。
2009 COP15/CMP5(コペンハーゲン):合意に失敗。
2010 COP16/CMP6(カンクン):カンクン合意
2011 COP17/CMP7(ダーバン):ダーバンプラットホームを設立。
2015 COP21/CMP11(パリ):2020年以降の新たな枠組み合意?

  

決裂したCOP6

 京都議定書の運用ルールについてのCOP6の交渉は難航しました。COP6は、吸収源の取り扱いを巡って紛糾し、結局、合意ができず、COP6はいったん中断し、再開会合が開催されることになりました。COP6で合意ができなかった要因については、いろいろな評価がありますが、世界の環境NGOのネットワークであるCANや、CASAなどの日本のNGOは、アメリカ、カナダや日本などが、京都議定書の削減目標を上回るような吸収量を獲得しようとしたことがCOP6を失敗に導く要因になったと評価し、日本のマスコミも同様の趣旨の報道をしました。このことには後日談があり、日本が合意を阻んだとの報道に怒ったある省が、マスコミ各社の論説委員などを呼びつけ、世界のマスコミで日本が合意を阻んだなどと報道しているところはないと抗議したそうです。

  

アメリカの離脱

 このCOP6が開催されている一方で、アメリカでは民主党のゴア氏と共和党のブッシュ氏の大統領選の開票を巡る訴訟合戦が行われていました。COP6の最中にアメリカの政府関係者と話した際に、ブッシュ大統領が当選したらアメリカの交渉ポジションが大きく後退するのは必至なので、不十分な合意でも合意を成立させないと、大変なことになると言われたことを覚えています。
 結局、ブッシュ共和党政権が成立し、2001年3月、ブッシュ政権は京都議定書がアメリカの経済に打撃を与えるだけでなく、主要な途上国に削減義務を課していない不平等な条約だとして、京都議定書からの離脱を宣言してしまいました。
 ブッシュ政権の議定書からの離脱宣言で、日本が京都議定書の発効のキャスティングボートを握ることになりました。なぜなら、京都議定書の発効には55カ国と、目標をもつ国(附属書Ⅰ国)の排出量の55%を超える締約国の批准が必要とされ、アメリカが附属書Ⅰ国の排出量の36.1%、ロシアが17.4%、日本が8.5%を占めており、アメリカが抜けた状況では、 ロシアと日本が批准しなければ、議定書は発効しないからです。ロシアは余剰排出量(ホットエアー)*1を売ることにより大きな利益が得られることから、いろいろな主張はしても議定書の発効に前向きで、問題は常にアメリカに 追従する日本政府が、アメリカ抜きでも批准するかどうかが最大の関心事となっていました。当時の途上国グループの議長であったイラン大使は、記者会見で「(このCOP6では)日本政府のアメリカからの政治的独立性が試されている」と発言したほどです。
 結果的に、2001年7月にドイツのボンで開催されたCOP6再開会合で、日本政府は吸収源で大きな吸収量を獲得するなどの日本政府にとっての「成果」をあげ、最終的に運用ルールの政治合意(ボン合意)に同意しました。


*1 ロシア、ウクライナの数値目標は1990年比0%とされましたが、ロシアは95年時点で90年比でマイナス30%、ウクライナは96年時点で半減しており、この余剰分は何の対策をしなくても売却できることになり、この余剰分が「ホットエアー」と呼ばれます。

  

京都議定書の運用ルール

 2001年10月末からモロッコのマラケシュで開催されたCOP7では、京都メカニズムの運用ルールや吸収源ルールの細部を詰めるとともに、COP6再開会合での政治的合意を、国際法として書き換える作業が行われ、京都議定書の運用ルールがマラケシュ合意として採択されました。このCOP7は、同年9月11日の同時多発テロの直後に行われたため、参加を見合わせた産業界などの関係者も多く、私たちも炭素菌対策の薬を持参しました。
 マラケシュ合意の主要な内容は以下のとおりです。
① 京都メカニズム
・京都メカニズムに参加できるのは、温室効果ガスの推計のための国内制度、目標遵守のための情報の整備、遵守制度 を受諾した締約国とする。
・京都メカニズムで獲得した削減量の利用は、国内対策での削減に対し「補完的」であること(定性的な表現のみ)。
・原発施設からの削減量(クレジット)の利用は控える*2
② 吸収源
・間伐などの「森林管理」(森林経営)を行った森林や、「農地管理」、「牧草地管理」なども含めてCOの吸収分をカウントできるように吸収源の対象を拡大。
③ 遵守制度
・削減目標を未達成の場合、①削減できなかった分の1.3倍の量を次期約束期間に繰り越す、②遵守のための行動計画の作成、③排出量取引での排出量の移転ができなくなるなどの制裁を受ける。
・国家通報の提出などを守らない場合には、京都メカニズムの利用ができなくなる。
④ 3つの基金
・条約のもとに、特別気候変動基金と後発開発途上国基金の 2つの基金、京都議定書のもとに適応基金の合計3つの基金を創設。

*2 原発を共同実施(先進国間)やCDM(先進国と途上国間)で建設した場合の削減量を、自国の目標にカウントできるようにしろと強く主張していたのは日本でした。しかし、合意された京都議定書の運用ルールでは、原発施設から削減量を自国の目標にカウントすることは「控える(refrain)」とされ、事実上、原発からの削減量の利用は出来ないことになりました。

  

京都議定書の発効と第2約束期間の交渉

 運用ルールが合意されたことにより、京都議定書は批准可能な状態*3になり、2002年に南アフリカで開催された国連の環境会議*4までの発効を目指すことになりましたが、ロシアがなかなか批准せず、2005年2月に、合意から7年を経て、京都議定書はようやく発効しました。
 2005年11月、カナダのモントリオールで、COP11とともに、京都議定書の第1回締約国会合(CMP1)が開催されました。
 COP11の課題の第1は、マラケシュ合意を採択して京都議定書を始動させることでした。また、議定書3条9項は、第1約束期間終了の少なくとも7年前には、2013年以降の先進国の削減目標(第2約束期間)について議論を開始しなければならないと定めていたことから、7年前にあたる2005年のCOP11で、第2約束期間の先進国の削減目標についての交渉を開始することになりました。2013年以降の削減目標の交渉では、議定書を批准していない米国をどのように議論に巻き込むか、また削減義務を課されることに強い警戒心を抱いている途上国の参加にどのように道筋をつけていくかということが最大の課題でした。COP11は、京都議定書に参加する先進国の第2約束期間の削減義務について交渉する特別作業部会(AWGKP)を設置するとともに、アメリカや主要な途上国の削減については、条約のもとで「長期的な協同行動の対話」を進めることになりました。

*3 条約などを批准するためには、条約を実施する法律などを国内的に準備する必要があり、そのためには京都議定書の運用ルールの決定が必要でした。
*4 2002年8月末から南アフリカのヨハネスブルグで開催された「持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグ・サミット)」のこと。1992年のブラジルのリオデジャネイロでの「環境開発会議」の10年後に開催されたことから、「リオ+ 10」とも言われます。

  

IPCC第4次評価報告書

 IPCCは、2007年に第4次評価報告書を発表しました。この第4次評価報告書は「温暖化は疑う余 地がない」とし、その原因については「人為起源の温室効果ガスの増加が原因であった可能性がかなり高い(90~95%の発生確率)」とし、2001年の第3次評価報告書に比べ、より踏み込んだ表現で、温暖化の原因が人為起源によることをほぼ断定しました。
 また、平均気温の上昇を産業革命以前より2.0~2.4℃に抑えるためには、2015年までにCO排出量をピークとして以後は削減に向かわせ、2050年までに世界全体のCO排出量を2000年比で50~85%削減することが必要とし、とりわけ日本などの先進国は2020年までに1990年比で25~40%削減し、2050年までに80~95%削減する必要があるとしました。
 この年、IPCCはアル・ゴア元アメリカ副大統領とともに、ノーベル平和賞を受賞しています。

  

バリ行動計画(COP13)

 2007年12月、インドネシアのバリで開催されたCOP13/CMP3の課題は、2013年以降の削減目標と制度枠組みについての交渉期限とそれに至る具体的な作業計画に合意することでした。さらに、IPCC第4次評価報告書の内容を次期枠組みの議論にどう活かすかも問われていました。
 COP13が採択した「バリ行動計画(バリ・アクションプラン)」では、交渉期限は2009年までとされ、アメリカや主要な途上国の参加については、COP11で開始した「長期的な協同行動の対話」を「特別作業部会(AWG-LCA)」に格上げし、アメリカの削減目標や主要な途上国の削減行動を議論することが決まりました。
 IPCC第4次評価報告書の、温室効果ガスの排出ピーク、2050年までの半減目標、先進国の2020年削減目標などの記載は、条約のもとでのCOPの決定本文には記載されませんでしたが、COP決定の前文に、「IPCCの第4次評価報告書に、地球規模の排出量の大幅な削減が必要なこと、気候変動への対処が緊急であることが強調されていることを認識する」との記述がなされ、脚注に排出ピークや中長期に削減数値の記載されているIPCC第4次報告書第3作業部会報告書の該当頁が記載されました。京都議定書のもとでのCMP決定には、温室効果ガスの排出ピーク、2050年までの半減目標、先進国の2020年削減目標などが記載されました。
 京都議定書にはアメリカは参加しておらず、途上国の削減目標や行動も京都議定書の締約国会合であるCMPの交渉テーマとはなっていないため、COP決定とCMP決定が異なることになりました。
 このCOP13/CMP3は、アメリカと途上国の参加についての道筋をつけられたことが、成果だと評価されています。

  

決裂したCOP15

 COP13で、COP15で次期枠組み合意をすることになったことから、COP15は決定的に重要な会議になりました。そのことを象徴しているのが、COP15に120ヵ国近い首脳が参加したことです。このことは、地球温暖化問題が国際政治の最重要な課題になったことを示していました。政府代表団、NGO、メディアなどの参加者も、COP史上最多の119ヵ国から4万人を超えました。
 会議の終盤に、オバマ大統領など先進国と主要な途上国などの20数ヵ国の首脳が集まり作成したコペンハーゲン合意案は、手続きが不透明で、公平性を欠くとして、ベネズエラ、ボリビアなどの複数の国が異議を唱えたため、決定として採択することができず、「コペンハーゲン合意」を「留意」するとするCOP決定を採択するに止まりました*5
 COP決定として採択はできませんでしたが、このコペンハーゲン合意には、いくつかの前進面がありました。地球の地表の平均気温上昇を工業化以前から2℃に抑制するという科学的見解を認識し、1.5℃未満を含む長期目標を強化することを確認したこと、先進国は2020年の削減目標を、途上国は削減行動をそれぞれ提出するとしたこと、2012年までに300億ドル、2020年までに毎年1000億ドルの資金拠出を先進国合同で目指すことになったことなどです。とりわけ、先進国の削減目標と途上国の削減行動がひとつの文書に書き込まれ、削減目標をもつ先進国と、もたない途上国という二分構造を 超えた合意になっていたことは、大きな前進面です。
 しかし、120ヵ国近い国の首脳が集まりながら、合意できなかったことにより、主として先進国から、国連方式の条約・議定書プロセスへの不満と失望の声が高まったことも事実です。

*5 「留意」するとするCOP決定は、それだけでは締約国を拘束せず、同意する国のみを政治的に拘束する政治的合意です。大多数の国が「コペンハーゲン合意」を支持しても、この合意が自動的に2013年以降の枠組み交渉の基礎はならないところが、「コペンハーゲン合意」がCOP決定として採択された場合と異なります。

  

カンクン合意

 メキシコのカンクンで開催されたCOP16は、コペンハーゲンの失敗をどう乗り越えるかが課題でした。
 そのCOP16の初日に、あろうことか、日本政府代表団が、「いかなる条件、状況においても、日本が京都議定書の第二約束期間の削減目標を約束することはない。」と発言し、このことが大きな非難を浴びました。カンクンでは、コペンハーゲンで失われた途上国と先進国の間の信頼関係を再構築することが最大の課題であり、議長国のメキシコ政府がこうした雰囲気づくりに努力をしていたにもかかわらず、こうした努力を無にしかねない発言だったからです。この発言は、ロイター、新華社通信、メキシコの新聞など海外のメディアが一斉に報道しました。ロイターの見出しは、「日本が京都議定書を殺す発言」でした。CASAも参加する世界の環境NGOのネットワークである気候行動ネットワーク(CAN)が、その日の「化石賞」*6を日本に授与したことは言うまでもありません。
 COP16で採択されたカンクン合意は、COP決定とCMP決定とからなっていて、CMP決定には「京都議定書の第2約束期間」の文言が明確に記載され、第1約束期間と第2約束期間との間に「空白(ギャップ)」を生じさせないように、第2約束期間の削減目標を検討するとされました。COP決定では、2 ℃未満目標がCOP決定に初めて書き込まれ、世界の温室効果ガスの排出量をできる限り早くピークアウトすべきとされています。
 また、コペンハーゲン合意に基づいて提出された締約国の自主目標(プレッジ)が、補助機関会合の情報文書に書き込まれることになりました。
 COP16の最大の成果は、コペンハーゲンで失われた多国間交渉への信頼を回復させ、途上国と先進国との間の信頼関係を修復したことです。メキシコ政府は徹底して「透明性ある運営」を心がけていました。とりわけ、閉会総会では、COP/ CMP議長を努めたメキシコのエスピノーサ外務大臣には、多くの締約国から感謝の言葉が多く捧げられました。
写真 11月28日のCOP16の開会式 中央がエスピノーサCOP/CMP議長、左がフィガーレス条約事務局長(出典:IISD)


*6 CASAも参加する、世界の地球温暖化問題に取り組む世界のNGOのネットワークであるCANが、その日の会議で、もっとも後ろ向きの行動や発言をした国に与える「不名誉」な賞。

  

COP17

 2011年11月末から南アフリカのダーバンで開催されたCOP17は、会議初日にカナダが京都議定書からの離脱を12月中にも表明するとのニュースが流れ、大荒れの開始になりました。これまでの発言から、第2約束期間に日、カナダ、ロシアが参加しないであろうことは想定内でしたが、さすがに議定書からの離脱することは想定外でした。
 COP16で日本が京都議定書の第2約束期間を受け入れないとし、カナダの離脱が現実化したこともあり、京都議定書の存続自体が危ぶまれることになりました。途上国を中心に京都議定書の存続を求める声が高まり、アフリカのグループは「アフリカを京都議定書の墓場にすることは許さない」との発言を繰り返し、参加者の大きな共感を呼びました。
 COP17の終了の予定は12月9日(金)午後6時でしたが、実際に終了したのは12月11日(日)午前5時過ぎでした。長いCOPの歴史の中で、会議の終了が終了日の翌日の土曜日まで伸びたことは度々ありましたが、翌々日の日曜日までかかったことは初めてで、このことがCOP17の交渉の難しさを象徴しています。
 CMP7の決定では、京都議定書の第2約束期間を、第1約束期間と空白を設けず、2013年1月1日から始めることが明確に記述されました。京都議定書の第2約束期間が明確に決定されたことは、アフリカ諸国の「アフリカを京都議定書の墓場にすることは許さない」との願いに応えることができたと言ってよいと思います。アメリカや途上国を含む全締約国 の2020年以降の削減目標・削減行動、制度枠組みについては、新たに「ダーバン・プラットフォーム作業部会(ADP)」を設置し、遅くても2015年までに、新たな議定書、法的文書あるいは法的成果のいずれか*7に合意することになりました。2013年以降の制度枠組みが、京都議定書のような法的拘束力あるものになるかどうかは決まっていませんが、少なくとも法的拘束力ある新たな議定書も含めて、法的な制度枠組みの合意を目指すことになりました。この合意 は「2015年合意」と呼ばれています。

*7「議定書、法的文書または法的効力を有する合意成果(protocol/legal instrument/agreed outcome with legal force)」。COP17では、2020年以降の新たな枠組みの法的形式について最後まで揉め、この「議定書、法的文書または法的効力を有する合意成果」は、各国の主張する法的形式を併記したものです。最終的な「2015年合意」の法的形式がいずれになるかは予断を許しません。

  

新たな段階に入った条約・ 議定書交渉

 COP17で、先進国及び途上国を含むすべての国を対象にした新たな枠組み交渉を開始することになったことは、条約・議定書交渉が新たな段階に入ったことを意味しています。
 モントリオールでの京都議定書の第1回締約国会合以来、条約・議定書交渉の主要な争点は、気候変動枠組条約や京都議定書の基本的な枠組みである先進国と途上国の二分構造からの脱却でした。共通だが差異ある責任原則により、先進国のみが削減義務を負うのか、それとも途上国も相応の削減努力をすべきかどうかが問題となっていました。また、京都議定書に参加していないアメリカをどう巻き込むかも主要な論点となっていました。
 京都議定書が合意された1996年当時は、世界のCO排出量は約240億トンで、アメリカが最大の排出国で世界全体の23%を排出し、2番目が中国の15%、3番目がソ連・東欧諸国で14%、4番目が日本5%であり、ソ連・東欧諸 国を含む、世界人口の4分の1に過ぎない先進国が、世界のCO排出量の3分の2を占めていました(図1)。一人当たり排出量でも、ソ連・東欧諸国を除く西側先進国は12.5トンで、途上国平均の2.0トンの約6倍以上でした。
 ところが、中国やインドなどがCO排出量を急増させ、中国のCO排出量がアメリカを抜いて世界1になり、現在では途上国の排出量が先進国を越えています。こうした途上国の排出量の増加からしても、アメリカは もちろんですが、中国などの主要な途上国にも何らかの対策をとってもらわないと地球温暖化が防止できないことは明らかです。その意味では、途上国も含めて「すべての国」が参加する枠組みが必要になっていることは否定できない現実です。
 しかし、そうは言っても、小島嶼国や後発開発途上国などは、総排出量も一人当たり排出量も極めて少なく、まだまだ経済的な発展が必要です。一人当たり排出量では、先進国は途上国の約3倍であり、地球温暖化の原因を作ったのは明らかに先進国であることも忘れてはならないと思います。
 「2015年合意」に向けた交渉は遅々としており、本当に実効性ある「2015年合意」ができるかどうかは予断を許しません。しかし、これまでの条約・議定書交渉を見ると、時には決裂したり、後退したりしながらも、確実に前に進んでいると思います。

図1 CO排出量(1996年)